北アルプスを越える酸性雪

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北アルプス・白馬岳の大雪渓。
(撮影: 珠樹 氏

 日本海の親不知から、およそ100キロメートル内陸の穂高連峰へと続く北アルプス(飛騨山脈)は、3000メートル級の山々が連なる、日本でも有数の高山地帯です。
 標高が高いために冬の間の気温は零下20度以下に達し、多くの雪が積もることでも知られています。多いところでは数メートルの雪に覆われ、世界的に見てもきわめて稀な豪雪地帯です。このような非常に厳しい環境の中にも、平野部には見ることのできない、貴重な動植物が多く生息しています。
 冬の間に積もった雪は春になると解けだします。こうして解けた雪は、高山地帯の動植物をうるおすだけではなく、麓の平野部にとっての貴重な水資源ともなります。


積雪観測の様子(立山室堂平)。

 近年では、都市部に降る「酸性雨」の問題に見られるように、雨や雪の中に含まれている化学物質が、環境に対して被害を与えていることが知られるようになりました。
 山岳地の雪は、その厳しい環境の形成に大きく関わっていると考えられますが、その中には「どのような物質が含まれているのか?」という関心が高まり、北アルプスの立山などで調査が行われています。
 その結果、とても「きれいなもの」であると考えられがちな山岳地の積雪にも、硫酸イオン(SO42-)・硝酸イオン(NO3-)のような、環境に被害を与えるかもしれない汚染物質が含まれていることがわかってきました。


白馬八方尾根での積雪観測。
(撮影: 手塚耕一郎 氏)

  冬の間は気温が低いため、山岳地に降った雪は解けることなく春まで積もり続けます。こうして積もった、数メートルに及ぶ積雪の中には、地面から積雪の表面にかけて、一冬分の雪の情報が記録されています。雪解けを迎える前、地面に達する雪穴を掘って一冬分の雪を集め、その化学成分を分析することで、一冬の間にどのような化学物質がそこに降り積もったかを知ることが出来ます。
 しかし、このような作業はたいへんな労力が必要であり、立山以外ではほとんど行われたことが無く、北アルプスの多くの場所では雪に「どのような化学物質が、どのぐらいの量が含まれているのか?」ということがわかりませんでした。そこで、立山以外の場所に降る雪を調べるため、立山とは北アルプスを隔てて反対側にある、白馬八方尾根でも調査を行いました。


北アルプス・白馬岳と立山。

 白馬八方尾根は白馬岳に近い唐松岳の中腹にあります。冬の間の日本列島にはシベリヤから寒気が吹き付けるため、北アルプス周辺では北西からの風が強まります。南北に長い山脈である北アルプスに対して白馬八方尾根は、この北西風の風下側に位置しています。

 冬の間に吹き付ける北西風は、北アルプスの風上側の斜面を吹き上がり、立山や白馬岳など3000メートル級の山々を越え、信州側に吹き下ります。日本海で発生した雪雲が風と共に山脈を越えるとき、北アルプスには大量の雪が降るのです。


化学物質は北アルプスを越えて運ばれていくのか?

 北西風と共に北アルプスを越える雪雲には、さまざまな化学物質が含まれていると考えられています。その中には、山岳地の雪から見つかった、硫酸や硝酸のような酸性物質も含まれています。
 このように、3000メートルの北アルプスを越えて運ばれる化学物質が、山脈を越えるときにどのぐらい雪と共に積もっているのか、さらに、山脈の風下側にはどのぐらい運ばれているのか、これまでほとんど調べられていませんでした。
 このことを明らかにするため、白馬八方尾根での調査と並行し、同じ時期の雪をらいちょうバレー(立山山麓)でも集めて比較してみました。風上側の場所であるらいちょうバレーと、風下側の白馬八方尾根の、両方の化学成分を比較することで、北アルプスの上空をどのように化学物質が運ばれているか、また、どのぐらいの量が北アルプスの山々に降り積もっているのかを知ることができるはずです。


立山らいちょうバレーと白馬八方尾根積雪のpH値。

 これまでの調査から、山岳地の雪にも酸性物質が含まれていることがわかっています。そこで「雪がどのぐらい酸性なのか?」を調べるため、二つの地点のpH値を測ってみました。pH値は、水がどのぐらい「酸性」かを示す値で、「小さいほど酸性が強い」ことになります。ふつう、雨や雪のpH値は5.6程度ですが、汚染物質が混じった酸性雨の場合は、それよりも小さくなります。
 pH値の平均値をみると、八方尾根では5.3、らいちょうバレーでは5.0という値になりました。これは、二つの地点ともに、降っている雪の大部分が「酸性雪」であることを示しています。実際、八方尾根では七割程度、らいちょうバレーではほぼ全ての雪のpH値が5.6以下を示しています。
 風上のらいちょうバレーと、風下の白馬八方尾根を較べてみると、風下の方が少しだけpH値が高い、つまり「酸性が弱い」ということがわかります。このことは、「酸性雪」の元になる酸性物質が北アルプスを越える前と後では、越えた後の方が少なくなっている事を示しています。


立山らいちょうバレーと白馬八方尾根積雪の硫酸・硝酸濃度。

 このように、雪を酸性にする物質には、工場や自動車などの排煙に含まれる硫酸イオン(SO42-)・硝酸イオン(NO3-)が考えられます。
 この二つの成分を測ってみると、多いときで2〜3ppmの硫酸や硝酸が含まれていることがわかりました。東京の雨*には平均して2ppm程度の硫酸や硝酸が含まれていますが、このような山岳地にも、時として都市部の雨に匹敵するような酸性「雪」が降っていることになります。
 ところが、北アルプスをはさんだ二つの地点で較べてみると、風上側のらいちょうバレーの方が、白馬八方尾根よりも濃度が高い場合が多く見られます。特に硫酸は、らいちょうバレーが平均1ppmであるのに対し、白馬八方尾根では平均0.5ppmと半分程度に少なくなっていました。

*参考: 東アジアの大気汚染の実態と動向(慶應義塾大学環境化学研究室)

アジア大陸からの大気の流れ(2001年12月9日から12日)。
(NOAA ARL HYSPLIT MODEL** の計算結果より作成)

 雪を酸性化させる物質のうち、硫酸の大部分は、日本海を越えて中国などアジア大陸の国々から運ばれて来ると考えられています。冬には大陸からの吹き出しが強くなりますが、気象のデータを元に、日本に流れてくる大気がどこを通ってきたかを調べると**、冬の間は多くの場合、中国北部からロシヤ極東地域を通ってくることがわかります。
 このような大気が日本海で雪雲を作り、アジア大陸から運ばれて来た硫酸と共に日本列島へと流れ込みます。一方、自動車の排気ガスなどが原因とされる硝酸のように、日本国内からも排出されると考えられる酸性物質も混ざり合い、やがて北アルプスを越えるときに「酸性雪」を降らせています。

**参考:NOAA ARL HYSPLIT MODEL(National Oceanic & Atmospheric Administration, U.S. Department of Commerce)

雪雲が北アルプスを越えるときに酸性物質が減少していく。

 このように北アルプスの山岳地に降り積もる「酸性雪」ですが、北アルプスを越える前と後では、含まれる酸性物質の量が違っていました。特に、アジア大陸から運ばれて来ている硫酸は、風下側の白馬八方尾根では風上側とくらべて半分ほどになっていました。
 このことは、雪雲が北アルプスの3000メートルの山々を越えるとき、大量に降る雪とともに雲の中の硫酸が取り除かれ、段々と減りながら風下側に運ばれて行っているためと考えられます。つまり、北アルプスは汚染物質のフィルターのような役割を持っているということになります。
 しかし、雪雲が北アルプスを越えたところにある、白馬八方尾根のような風下側の地域であっても、取り除かれなかった酸性物質が運ばれてきており、多くの「酸性雪」が降っていることもまた確かです。


汚染物質が雪雲と共に北アルプスを越える(劔岳)。

 こうして冬の間に雪と共に北アルプスに降り積もる酸性物質は、本来、天然にはほとんど存在しない物質です。しかし、これらの物質が山岳地の環境にどのような被害を与えるのか、明かではありません。
 厳しい山岳地の環境は、わずかな変化に対しても非常に傷つきやすいものであるといわれていますが、このような酸性物質が、たとえば動植物にどのような影響を及ぼすのか、今後さらに調べてゆく必要があります。
 一方、これらの物質の排出源の一つと考えられる中国・ロシヤ極東部は、経済発展が急速に進んでいる地域です。このため、これからも汚染物質の排出が増加し、国境を越えた汚染が深刻になることも考えられます。これらの国々と協力し、環境をよりよいものにしていく努力も今後、いっそう必要になると思われます。