北アルプスに降る酸性雪はどこから来たのか?

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北アルプス。

 北アルプス(飛騨山脈)は日本の中部にある山岳地帯です。日本でもっとも高い山は富士山ですが、それ以外の 3,000m を越す山の多くが、北アルプスにあります。
 古代から北アルプスの山々では山岳宗教がさかんで、多くの人たちの信仰を集めてきました。千年も前に宗教者によって登頂されたという記録も遺されています。
 近代になって、ヨーロッパから探検・スポーツという意味での登山が日本に紹介されると、北アルプスは多くの登山者・観光客でにぎわうようになりました。「日本アルプス」という通称も、このときに名付けられたものです。現在では、全域が国立公園に指定されて保護されています。

高山の風景(立山)。

 多くの北アルプスの山々は、標高が 2,000m を越え、3,000m を越える山々もあります。このような高山地帯は、気候が平野部とは大きく異なります。
 標高が高いために、気温は平野部と較べて 10℃ から 20℃ 程度低く、夏でも冷涼な気候です。このため、平野部では生息できない動植物が多く、例えば雷鳥のように氷河時代の生き残りと考えられている種もあります。
 いっぽう、冬の気象は非常に厳しく、アジア大陸から吹き出す寒気の直撃を受けます。気温は -20℃ 以下になり、数 m の積雪に覆われます。世界的に見ても、このような豪雪地帯は希です。
 しかし、再び夏が訪れると、積もった雪はほぼ全て解けてしまいます。このように解けた雪は、麓の平野部にとっては貴重な水資源となります。

冬季の北アルプスは雪に覆われます(大日岳)。

 地理的に近づくことが難しいため、こうした北アルプスの高山環境はまだ、よくわからない部分が多くあります。特に、冬季の環境は厳しい気象条件もあって、ほとんど調査が行われていません。
 しかし、「冬の間に大量に積もる雪の性質がどのようなものなのか?」という関心から、30年ぐらい前より北アルプス積雪の科学的調査が始まりました。
 最近になり、都市部では酸性雨による被害が問題になりました。このため「高山地帯の環境に深く関わっていると思われる雪にはどんな物質が含まれているのか?」という関心が高まり、積雪の化学分析の調査も行われるようになりました。

積雪観測のようす。

 北アルプスの山々に雪が積もり始めるのは、晩秋の10月から11月頃からです。冬のあいだ、高山地帯の気温はほとんど氷点下なので、雪解けが始まる春の 4 月頃までは解けることなく積もり続けます。
 こうして積もった雪は場所によって数 m にも及びます。この積雪は、地面付近から表面にかけて、秋から春の間にその場所に降った雪がそのまま保存されていることになります。
 雪が解け始める前に地面に達する雪穴を掘り、例えば 3cm ごとに雪を採取すれば、その場所に一冬の間降った雪を手に入れることが可能になります。このようにして集めた雪の化学分析を行い、北アルプスに降る雪に何が含まれているのかを調べました。
 調査を行った場所は、北アルプスの南端にある西穂高岳の中腹、標高 2,200m の場所です。ここは、海岸から 100km ほど内陸にあり、周囲には工場などの大規模な汚染源がありません。

上空から見た中国の砂漠。

 高山地帯の積雪は、とてもきれいなものであると考えられがちです。しかし、実際に化学分析を行ってみると、さまざまな物質が含まれていることがわかります。
 この中には、塩化物イオン(Cl-)やナトリウムイオン(Na+)のように海から来たと考えられるもの、マグネシウムイオン(Mg2+)やカルシウムイオン(Ca2+)のように土や岩石から溶け出したものと考えられるものもあります。
 Ca2+ は、中国の砂漠から飛んでくる黄砂の主成分です。このように、長い距離を運ばれて、日本の高山地帯に到達する物質もあります。

西穂高岳積雪中の硝酸と硫酸の濃度。

 ところが、積雪の中には天然にはほとんど存在しない物質も多く含まれていることがわかりました。例えば、硫酸イオン(SO42-)・硝酸イオン(NO3-)のような物質です。
 これらの物質は主に、石炭や石油を燃やしたときに発生し、工場や自動車の排気ガスにも含まれています。また、これらの物質は雨や雪を酸性にします。酸性になった雨・雪は森林などの生態系を破壊したり、人々の健康への被害もあると考えられています。
 西穂高岳で集めた積雪には、多いときには 5 ppm 程度の硫酸・硝酸が含まれていました。この濃度は、都市部の降水の硫酸・硝酸にも匹敵する濃度です。このような汚染物質がどこから来たのでしょうか?

東アジア各国のエネルギー消費構造。

 雪に含まれる硫酸は、主に大気中にある硫黄酸化物(SOx)が雪に取り込まれたものです。この大気中にある SOx は主に、石炭を燃やしたときに発生します。日本では、燃料として石炭をあまり使っていません。しかし隣の中国では、エネルギー源の約 7 割を石炭に頼っています。
 いっぽう、日本のエネルギー源の半分は石油です。石油を燃やしたときには窒素酸化物(NOx)が発生します。これが硝酸として雨や雪に取り込まれると考えられています。
 石炭を多く使う中国では、大気中の硫酸の量が硝酸に較べて非常に多いです。例えば中国の北京では、雨に含まれる硫酸の量が硝酸の約 3〜4 倍あります。
 石炭をあまり使わない日本では、中国と較べると降水中の硫酸の量は少なく、例えば東京では、硫酸の量が硝酸の約 1.5〜2倍程度です。

西穂高岳積雪中の硝酸と硫酸イオンの関係。

 西穂高岳に降る雪の硫酸と硝酸の関係を調べてみると、大部分の雪は、硫酸が硝酸の 2〜4倍程度含まれていることがわかりました。右の図では、赤い線が北京での硫酸と硝酸の比率をあらわし、緑の線が東京での比率をあらわしています
 大部分の試料が、東京よりも高い硫酸の割合を持っていることがわかります。したがって、これらの物質は中国から運ばれてきたものが多く含まれていると考えることができます。
 もちろん、実際には、運ばれてくる途中で日本国内から排出された汚染物質も取り込まれるでしょう。これらのものが混ざりながら、西穂高岳のような高山地帯にも到達していることがわかります。

中国と日本の硫黄同位体比。

 特に硫酸に注目して、さらに詳しくその起源を調べるため、硫酸(SO42-)に含まれる硫黄(S)の同位体比を調べました。
 硫黄は「32S」という「軽い硫黄」と「34S」という「重い硫黄」が混ざって存在しています。例えば、石炭に含まれる硫黄は、産地によってこの二つの「重さのちがう硫黄」の混合率が異なります。このような「混ざり具合」のことを同位体比といい、‰(パーミル)という単位であらわします。数字が大きければ「重い硫黄」が多く、少なければ「軽い硫黄」が多いという意味です。
 中国で産出する石炭の硫黄同位体比は、北部が重く(+5‰ ぐらい)、南部が軽い(-5‰ ぐらい)という特徴があります。北京周辺の石炭は特に重い硫黄を多く含み、+10‰ 以上の所もあります。いっぽう、日本で消費される石油に含まれる硫黄の同位体比は -1‰ 程度です。このように、石炭や石油に含まれる硫黄は産地によって固有の同位体比を持ちます。
 それらを燃やして発生する硫酸の硫黄同位体比も、元の石炭や石油の同位体比を反映しています。したがって、硫酸の硫黄同位体比を測ることで、どの地域で発生した硫酸なのかを詳しく調べることができます。

西穂高岳積雪中の硫黄同位体比。

 西穂高岳積雪に含まれる硫酸の硫黄同位体比は、全ての試料で +3〜+7‰ 程度という、高い値を示しました。日本で使われる石油の硫黄同位体比が -1‰ なので、積雪に含まれる硫酸の多くは日本以外に起源があるということがわかります。
 積雪の層によって同位体比は高くなったり低くなったりしますが、これは、その層ができたときの気象状況によって変動しているのだと考えられます。
 例えば +7‰ という、特に高い同位体比を持つ層が積もったときには、北京周辺(+10‰ 以上)からの輸送が多かったのかもしれません。また、+3‰ という、低い値の同位体比を持つ層が形成されたときは、中国南部(-5‰ 程度)や日本国内の影響が大きかったと考えられます。
 こうして、雪の硫黄同位体比を測ることで、その雪に含まれている汚染物質がどこから来たのか、ということを詳しく決めることができるのです。

西穂高岳。

 北アルプスという高山地帯にも、時として都市部の降水に匹敵するような量の酸性汚染物質が含まれていることがわかり、それらは日本海を越えて輸送されてきているということもわかりました。
 中国を始め、東アジア地域は現在、経済発展がもっとも盛んな地域の一つであり、これからも、これらの汚染物質が増加していくことも考えられます。じっさい、中国国内でも酸性雨の被害が深刻化しているといわれています。
 概算すると、西穂高岳に一冬のあいだ降り積もる硫酸・硝酸の量は、一平米あたり それぞれ 1.7g 程度と見積もられます。元々、天然には存在しないこれらの酸性物質が、それでは、高山の環境にどのような影響を与えているのか、実はまだわかっていません。
 貴重な動植物の生態系を始めとする高山環境を解明する上でも、高山地帯の積雪に何が含まれているのか、それらがどこから来たのか、ということを今後も調べていかなければなりません。